ログイン【美鈴視点】
.光也と実花が店を出ていく後ろ姿を、美鈴は呆然と見つめていた。
胸の奥が焼けるように熱い。
悔しい―――ただ、それだけだった。
東国光也。
あれほどの男を美鈴は今まで見たことがなかった。
容姿。
才能。
家柄。
財力。
何より、自信に満ちた立ち居振る舞い。
誰よりも上に立つことが当然だと言わんばかりの存在感。
それなのに嫌味がない。
だからこそ腹が立つ。
そんな男が。
(どうして実花なの……)
東国光也は「実花のために」で行動していた。
あれほどの存在感なのに、最初は居ることに気づかなかった。
どうしてか。
気づいた今なら分かる。
実花のためだ。
東国光也はどう行動すれば最も実花にとって良いかを考えていた。
こちらの出方を見
京はスマートフォンをバッグへしまうと、立ち上がった。「行きましょう」「どこにですか?」「ちょっと、ここでは話せないの」そう言ってテーブルを回り込み、実花の手をそっと握る。温かい手だった。「でも」京は真っ直ぐ実花を見つめる。「私を信じてついてきてほしい」その言葉には不思議と迷いがなかった。実花は小さく頷く。「……はい」店を出ると、京は近くの駐車場へ向かった。白いセダンの助手席へ案内され、実花は静かにシートベルトを締める。どこへ向かうのか。聞こうとは思わなかった。京が自分を騙す人ではない。それだけは分かっていた。車がゆっくりと走り始めた、そのとき。スマートフォンが震えた。【東国光也】画面に表示された名前を見て、実花の鼓動が少しだけ速くなる。「光也?」「はい」光也からのメッセージにあった通り、ホテル名と部屋番号を京に伝える。これから光也と会うかもしれないとは思っていた。しかし、実際にそうなると緊張してしまう。「話しておきたいことがあるの」実花は頷いて、静かに耳を傾けた。「光也のお父様――東国の当主にはね、本当に愛した女性がいたの」車窓の景色が流れていく。京は淡々と話し始めた。「彼女と結婚することはなかったわ。彼女には英国人の婚約者がいたから」京が肩を竦める。「東国の当主は別の女性と政略結婚したの。今の妻ね。本人が言うには、『東国家のために』『仕方がなく』だそうよ」愛していたわけではない。東国のため。仕方がなく。「言い訳のようですね」実花の言葉に京は笑う。「その通りよ。自分が浮気するための言い訳。それに乗っかる女
「東国さんが、好き……なんです」その言葉を口にした瞬間、これまで感情の蓋をしていた栓が抜けた気がした。ぽろり、と涙が頬を伝う。「あら、あらあら!?」京が慌ててハンカチを差し出した。「え、どうして泣くの!?」「私も……分からなくて」涙が次から次へと溢れてくることしか実花には分からなかった。こんな感情に任せて泣いた記憶がなくて、実花は戸惑う。一方で、京も完全に混乱していた。「え、待って?」「す、すみません……」涙声で謝られて、京は一層混乱する。謝らせたいわけではないのだ。「待ってって言ったのは混乱したからなの。だって、光也とは両想いじゃないの?」「……両想い」実花の目から零れる涙の量が増える。「両想いはいいことよ。今から祝杯をあげたいくらいいい気分なんだから」「でも……」実花は涙を拭う。「東国さんは、他に……」その一言で、京の表情が変わった。「光也、何したの?」低い声だった。実花の涙がびっくりして止まる。ひっくと喉の奥からしゃっくりが出た。「昔からあの子、本当に無神経だったのよ! 女の子には特にね!」何かを思い出したらしい。京は何かに怒っているようだ。「学生時代なんてね、告白しようとして呼び出そうとした女の子に“面倒だからそこで言え”って。あり得る?」「……東国さんなら、変じゃないかなって……」「そうなのよ、あの子らしいって言えば、あの子らしいのよ」でもね、と京は続ける。「本音と建前も理解しないのよ」「それは……」「ええ、そう。あの子らしいといえば、あの子らしいわよね」実花は頷く。「例えばね。『一回だけでいいから』って頼まれたら、本当に一回だけなのよ」「え……」
「今日はお時間を作っていただいて、ありがとうございます」待ち合わせたカフェで席に着くと、実花は深く頭を下げた。京は柔らかく笑う。「気にしないで。『会いたい』なんて可愛い子にお願いされて断る理由ないじゃない」「でも、急だったのに……」「大丈夫よ、無理なんてしていないから」そう言って紅茶を口に運ぶ。「それにしても、あの光也がこんな常識的で可愛い子と婚約するなんて」思わず頬が熱くなる。「京さんは……」東国家とは懇意にしていますよね。篠原真理のことを何か聞いていますか。そう言いかけた言葉が止まる。「光也さんの、叔母さんなんですよね」口にした瞬間、自分でも恥ずかしくなった。(何を聞いてるの……)それはすでに知っていること。東国のパーティーで光也からそう紹介されている。(話の切り出し方が分からなかったからって……)京は体を小さくする実花を見つめ、笑った。「光也があなたのことを困らせてるの?」実花は思わず顔を上げる。「図星みたいね」「い、いえ……その……」否定しようとして、言葉が続かなかった。京は苦笑する。「あの子ね、昔からそういう子なの」「昔から……?」「昔から、まるで、自分一人で生きてるみたいな子だった」京は懐かしそうに窓の外を眺めた。「誰かに頼ることもしない。甘えることもしない。人を遠ざけるわけじゃないけど、自分から近づくこともない」「……」「傍にいたのは航くらいかしら」実花は静かに耳を傾ける。「今思えば、大人の私
【航視点】「お前、実花ちゃんに何かした?」コーヒーを置きながらそう聞くと、光也は怪訝そうにこちらを見た。「何だ?」「何だじゃねぇよ」航は腕を組み、深く息を吐く。「実花ちゃん、最近様子がおかしいぞ」光也は眉を寄せた。「そんな気はしていたが、そういうこともあるだろう」「まあ、そうだがな」航の曖昧な返事に、光也の眉間にしわが寄る。「実花ちゃんの様子がおかしくなったのって、この前、ほら、例の彼女が会社に来て、実花ちゃんと会った日だぞ」「ああ」光也は納得したように頷く。「その件なら問題ない」「……は?」「実花には、今は言えないこともあると説明した。実花も納得している」航は数秒、言葉を失った。「……納得してる、じゃねぇよ!」思わず机を叩く。光也は少しだけ眉をひそめた。「何だ?」「何だじゃねえよ! お前、なにそれで納得してんだよ!」「……違うのか?」「違うに決まってんだろ!」航は頭を抱えた。(この男、本気で分かってねぇ……)「客観的に考えてみろ」指を一本立てる。「婚約者が、知らない女と社長室で二人きり」二本目。「お前は他人に虫けらほども興味を示さない男だ」「否定はしない……それが問題か?」「それは今回は問題視しない。問題は、そのお前が彼女には親切にしてることだ」光也が首を傾げる。「話をしていただけだぞ」「お前の場合、それが超親切に該当するんだよ!」航は盛大にツッコミを入れた。「実花ちゃんからしたら、不安になるに決まってるだろ」光也は腕を組み、静かに考え込む。「分かったか?」「……いまいち分からない」航は天井を仰いだ
真理と社長室で会ってから、一ヶ月経った。実花の胸には、まだ小さな棘が刺さったままだ。それでも日常は何も変わらない。学校へ行き、授業を受ける。光也とは火曜日のバイトで会う。光也は以前と何も変わらなかった。真理も変わらない。何度か学校に来て、来る前日に実花に連絡が来て、お昼休みに図書室で会う。穏やかに笑うことも。実花へ話しかけてくる声も同じだ。まるで、何事もなかったかのように進んでいる。だからだろう。実花は自分だけ置いていかれている感じがしていた。.「そういえば、この前の土曜日。東国さんと会ったんでしょう?」いつも通り図書室で会うと、真理にそう言われた。土曜日。確かに実花は光也に会わないかと誘われた。(でも……)「ううん。土曜日は用事があって」「そうだったんだ」真理との会話はそこで終わったけれど、実花の中にはモヤッとしたものが残った。(どうして土曜日に東国さんが私を誘うことを知っているの?)どこかで二人は会っていたことになる。そこで二人はどんな会話をしたのか。自分は二人の間でどういう存在なのか。(共通の知人、それとも……)お邪魔虫。実花は隣にいる真理を見る。視線に気づいたのか、真理がこちらを見て首を傾げる。その表情から、敵意とか嫌悪とかは感じない。実花は少しだけ安心した。(あのとき、「今は言えない」って言ったのは……)きっと、本当に事情があるだけなのだ。光也も、真理も、実花を傷つけようとしているわけではない。だから嘘を吐いたり隠したりせず、「今は言えない」と正直に伝えてくれた。「待っていてくれる」と信頼されていると思えば、嬉しくもある。けれど。そんな気持ちは長く続かな
「えっと……そうだよね、今日は火曜日……だった」「……うん」真理の言葉に実花は頷く。つばを飲み込む。「あの……どういう関係、なの?」実花は勇気を振り絞って問いかけた。真理は小さく息を呑み、実花を見つめる。その瞳には迷いと苦しさが滲んでいた。「ごめん」小さな声。「今は言えない」それだけ言うと、真理は深く頭を下げる。「本当に、ごめん」真理は実花の横を通り過ぎると、足早に去っていった。まるで逃げるような後ろ姿だった。「……真理」呼び止めたい。追いかけたい。けれど、真理の苦しそうな顔を思い出すと足が動かない。胸の奥だけが苦しく締めつけられていく。実花はゆっくりと視線を上げた。そこには光也が立っている。静かな表情で、何も変わらない、いつもと同じ顔。(聞けばいい)そう思った。実は知り合いだったのか。なぜ、二人で会っていたのか。(東国さんなら……)そう思ったところで、考えが止まった。(……“なら”?)もし、真理と同じように「今は言えない」と答えられたら?その可能性は高い。先ほど真理が目の前で、実花の質問にそう答えたのだから。もし、光也まで同じ答えを返したら。それは、真理の意思を優先したことになる。実花の質問よりも。(……まるで被害妄想じゃない。何か事情があるのかも……)でも、想像できる事情が一つしか思いつかない。特別な関係。胸がちくりと痛む。その痛みが、前の人生の記憶を呼び起こした。前の生で、実花は恒一に聞いたことがある。『私と美鈴さん、どちらが大切なの?』あの頃の自分は、本当に苦しかった。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。それまで室内に漂っていた柔らかな熱が、一瞬で冷え切る。重く、鋭く、抗うことを許さない圧が部屋の中へと流れ込んできた。「実花」低い声。その一言だけで、使用人たちの背筋が一斉に伸びる。まるで空気そのものが命令を受けたかのようだった。藤宮実篤。藤宮グループの頂点に立つ男は、いつだって“場の支配者”として現れる。誰かと会話をしていても、笑みを浮かべていても、その場の空気は最終的に彼のものになる。逆らうことを考える前に、人は自然と従う。そういう種類の男だった。実篤の視線がまっすぐ実花へ向く。そして次の瞬間、その目がわずかに見開かれた。「……そ
「お嬢様、今日は髪をまとめて、首元を見せてみたらいかがでしょう」その一言は、何気ない提案のようでいて、実花にとっては奇妙な重みを持って響いた。前世の記憶が一瞬でよみがえる。一ノ瀬恒一は、実花が髪を上げることを好まなかった。首筋が露わになることを「下品だ」と言い、社交の場で他の女性が髪をまとめているのを見ては、どこか見下すような言い方をしていた。その言葉を、実花は何度も正解として受け取ってきた。だから彼の前で一度たりとも髪を上げたことはなかった。それが「好かれるための正しさ」だと信じていたからだ。だが今、その記憶は違う形で胸に残っている。「……いいわね」返事はすぐに出なかった。
使用人が用意したドレスを、実花は静かに見下ろしていた。白に近い淡紫色。光の当たり方によってはほとんど白にも見えるその色は、藤宮家の「清楚な娘」であることを象徴するために選ばれたものだった。上品で、柔らかく、誰から見ても好印象を与える色。前世の実花はこの色を疑うこともなく、むしろ一ノ瀬恒一の好みに合うだろうと信じて、少し誇らしげに選んでいた記憶すらある。彼に選ばれるための自分を作ることに、何の疑問も抱いていなかった。だが今、その淡い紫はまったく違う意味を持って見えていた。それは「清楚」の象徴ではなく、「従順」の象徴だった。良い娘であること、良い妻になること、それらの言葉に守られているよう
まぶしさで目が覚めた。実花は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。瞼の裏に残る白い光の余韻がゆっくりと引いていき、代わりに柔らかい感触と静かな空気が意識へと染み込んでくる。身体を包んでいるのは上質なシーツで、布地は肌に吸い付くように滑らかだった。鼻腔を満たすのは、微かに甘く落ち着いた香り。高価な調度品に染みついたような、整えられた空間特有の匂いだ。ゆっくりと視線を巡らせると、そこは見慣れた―――けれど今の自分からは遠く感じる藤宮邸の一室だった。咄嗟に窓の外を見る。そこには、過剰なまでに手入れされた庭園が広がり、剪定された樹木と計算された配置の花々が、まるで絵画のような均整を保ってい







